エリート ってどんな人?【才能論】

エリート と呼ばれる人たちの才能について考える

エリート (élite)ってどういう人のことを指すの? 考えてみた

きみの周りに、「 エリート 」と呼ばれる人はいますか? あるいは、自分のことを「エリート」だと思いますか?

おそらくそういう人たちは小学生とかからものすごーく勉強が良くできて、有名な大学に進学して、大きな会社に就職して、お金持ちになって……。素敵なパートナーを見つけて結婚して、家を買って子供ができて、精神的にも金銭的にも余裕たっぷりの生活を送っている。

そんな人のことを世間は「エリート」とみなすのかもしれません。

あるいは、英才教育を小さい頃からガンガン受けて、スポーツや芸術など特定の分野で圧倒的な実績を叩き出している存在。

それも「エリート」のイメージに合致すると思います。

 

だけどあたしは思うんです。

評価基準が偏りすぎてない?

より厳密に言えば、

評価される「才能」のジャンルが少なすぎない?

という風に感じます。

 

エリートって結局なんなんだろう?
才能ってなんなんだろう?

今回は、これについて考えたいと思います。

 

 

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自分には何の才能もない、なんて誰が決めた!?

この間、友人に勧められてとあるアニメを見ました。

「さくら荘のペットな彼女」という作品です。(確か原作はライトノベルのはず……)

ゲームデザイナー、漫画家、声優、アニメクリエーター、小説家、プログラマーなど、それぞれの将来の夢を追う高校生数名がひとつの寮に住んで青春を送る。ストーリー自体はオーソドックスな青春ラブストーリーです。

ですが、出てくる登場人物がみんな、「才能」というものと向き合いながらときには挫折し、それでも前に進んでいくというストーリー展開になっており、見ているあたしたちもそれについて一緒に考えさせられるような印象を受けました。

 

自分の取り組みが評価されず、そばにいる女の子の「才能」ばかりがもてはやされてついそれに嫉妬してしまう男の子。

「努力」をどれだけ続けても、「才能」の壁が破れずに葛藤する女の子。

自分に「才能」がないと決めつけ、「才能」に満ち溢れた女の子に対するコンプレックスからきちんと向き合うことをためらう男の子。

 

才能を持つ登場人物に憧れや尊敬の念を持つのか、それとも才能がない登場人物に共感を抱くのか、それは見る人によって様々だとは思うのですが、あたしみたいに「才能」について思うところがある人は、ぜひ一度見てください。(↓こちらが第1話)

 

あたしがこのアニメを見て一番好きになったキャラクターは、才能が「ない」側の人だったから、心のどこかに「自分には才能がないもんなぁ……あったらイイなぁ……」と思っているところがあるのかもしれません。

だけど、それと同時に一番強く思ったのは、

結局才能の有無って、時代で決まるよね

ということでした。

 

たとえば、勉強の才能がまったくない、低学歴の人がいたとします。

外見上はなにも問題もないように見える人でも、学歴至上主義の日本では、就職するのが難しい場面も多いです。だから低賃金で重労働せざるをえない。

起業しようにも、勉強ができないからなんのアイデアも思いつかない。算数すらままならない。

 

このように、自分で稼ぐことができない、自力で生きていくことができない人というのは、今の日本にも何割かはいます。

じゃあこの 「低学歴の人」はみんな、「なんの才能のない人」なんでしょうか?

おそらく答えは、間違いです。

なぜなら「才能」とは厳密に言うと、「特定の場所・時代において必要とされる(評価される)能力」にすぎないからです。

先ほどの「さくら荘のペットな彼女」の例で言うと、どれだけゲームを作る才能があったとしても、そもそもゲームがなかった今から100年くらい前に産まれていたらそんなの何の価値もないわけです。非力だけど面白いお話を考える文才だけはあるという人がいたって、その人が江戸時代に農民として産まれてしまったら、自分の才能に気づく場面も一切活かせる機会もなく、ただの「能無し」で終わってしまうんです。

今の時代はたまたまゲームという娯楽が存在して、「eスポーツ」という形で評価される風潮の中にあって、素晴らしい文章を出版流通したり情報として発信したりするシステムが整っているから、これらの才能を活かせる。

そんなの、運にしかすぎません。

つまり、低学歴の人(エリートではない人)とは、「時代が求めるものと、自分が持ってるものが合ってない人」でしかないのです。もっと言えば、自分に何の才能があるか自分にすらわかっていない可能性だってあるわけです。

「ドラえもん」に出てくるのび太くんは、戦国時代に雑賀衆(鉄砲隊)の中で産まれていたら、間違いなく才能満ち溢れた「エリート」だったわけで。

 

逆もまたしかり。学歴社会の現代日本で「エリート」とされている人でも、たとえば「血を見るのが怖い」とか「動物に触ることができない」みたいな人は多数います。

今の時代なら全く問題ないですが、縄文時代みたいな狩猟時代に生まれていたら、生活していくことができません。現代で言うところの、「非エリート」でしょう。

足手まといだといって狩りに参加させてもらえず、仲間はずれにされ、ひとりで生きていく手段もなく、途方に暮れてさまよっている間に野生のイノシシとかに襲われてあっけなく死んでしまう。

そんな人もきっと存在したでしょう。

また、今はモラル的に認められていないものの、「無慈悲かつ効率的に大量に人を殺す能力」が「才能」だとみなされほてはやされた時代だってあったのです。あたしたちにその才能があるのか、今のあたしたちには判断することはできません。

 

今のあたしたちが自己や他者にどのような評価をされていようと、誰にだって特定の時代に生まれていれば「才能のない劣等生」に仲間入りしていた可能性が非常に高いのです。あるいは、「才能の塊のエリート」と称賛された可能性だってあるのです。

あたしはたまたま偶然、なんとか生きていける時代に産まれただけです。運良く今のところは食べていけているけど、生まれる国や時代がちょっと違ってたら、「才能のない足手まとい」になる可能性だってあった。もしくは、今のあたしが持っている知識や考え方だけで「才能抜群のエリート」とされていたかもしれない。

こうして考えると、誰しもが「才能」を持っているわけですし、現代日本における価値観だけで「才能」を決めつけてしまうことに疑問を持ってしまいます。

いわゆる「エリート」の人は、このことに気づいているのでしょうか? 今日の「エリート」が、明日には「エリート」でなくなる可能性を考慮しつつ、人生を送っているのでしょうか?

自分に才能があるかはわからないが、才能がまったくないことはない

自分に才能はあるけれど、それがいつも活かせるものであるとは限らない

そうやって、誰しもがどこかに転がる自分の才能を見いだすために行動していくほかないのです。そして、周りに対しても同じように接していくべきだと思うのです。

 

 

エリート = 高学歴? いやいやそんなことはない!

次に、エリートについて考えてみます。エリートとは一般的にこのように定義されています。

エリート(フランス語: élite)…社会の中で優秀とされ指導的な役割を持つ人間や集団のこと。

ある社会の中で優越的な地位を占める少数者のことを「エリート」と呼ぶそうです。

なにをもって「優越」していると考えるかは難しいけど、政治学者のハロルド・ラスウェル氏の言葉を借りると

社会的尊敬/収入/安全の3つの価値を最大限に獲得できる力

が世間よりも優越している人が「エリート」だと定義できます。

下記はハロルド・ラスウェル氏の著書「権力と社会-政治研究の枠組-」です。

このあたりのお話は堅苦しいけど、最後までついてきてください!

これをあたしたちが思うエリート像に当てはめて考えてみると、確かに納得できるところも多いです。能力が高いエリートの方に対してあたしたちは「すごい!」と尊敬を抱くし、「平均年収ランキング」の上位に入るような一流企業に勤めている人は収入も多い。高水準の安定収入があるとセキュリティがしっかりしたオートロックのマンションに住めるわけだから、少なくとも(不慮の事故でもない限り)生命の安全を脅かすような環境の中に身をおくこともないでしょう。

セキュリティ万全のオフィスビルでパソコンに向かい、部下や取引先に対して的確な指示を出せる人望の厚い高学歴の人。

これが字義通りの「エリート」像です。今の日本では、高学歴ほどエリートになれる可能性が高いのでしょう。

これはスポーツや芸術分野における「エリート」においても同じで、最終的に推薦などで大学に進学し(野球推薦で早稲田や慶応に入ったり)、結果として高学歴の仲間入りとなります。

なので結局、「学歴なんて関係ない」とはなりません。

現代日本において世間的に評価されている基準を採用した結果定義される「エリート」は、高学歴になってしまうのです。

 

ですが、ここで先程の才能論とあわせて考えてみます。

確かに高学歴は尊敬されるし、高収入も期待できます。人に指示する側なので、死と隣合わせの現場に向かうこともほぼないと思います。

でもそれは、現代日本における才能評価基準に基づくものにすぎません。結局、エリートになれる条件も時代によって様々なのです。

 

だいいち、今の日本ですら、上記の定義に当てはまらないエリートは多数います。

尊敬される条件」に含まれる人の特徴は内面に関わるものばかりで、学歴に関する言及はありません。

収入が高いとはあくまで「相対的に高い方」という意味で、本当に収入の高い人は軒並み起業や投資を行っている人です。えてして、こういう人たちは高学歴とは限りません。

日本で暮らす以上、当然だからといって気づきにくいものの十分安全です。「低学歴は危険な場所で暮らせ」なんていう学歴と安全とを結びつける指示は憲法違反(居住・移転の自由)となるため、ありえません。

つまり、

高学歴の人はエリートになる

これが成り立つ可能性は高いものの、

エリートになる人は高学歴である

という「逆」は成り立ちません。

なので、「高学歴しかエリートになれない」「自分は高学歴だから、エリートなんだ」などという思い込みはすべて間違いです。改めるべきです。

もちろん高学歴が悪いなんて言うつもりは全くなくて、学歴だけですべてが決まると思い込んでいる状況がやばいと思っているわけです。

 

逆に言うと、誰でも今からの頑張り次第でエリートの仲間入りすることだってできます。

大企業に就職するときは残念ながらある程度「学歴フィルター」なるものが存在するのは否めないので、この路線で勝負するのは難しいでしょう。学歴を手に入れる「才能」って、たいてい高校生くらいまでで判断できちゃうから。

ですが、それ以降でもエリートになれる可能性がある。

それが起業であり、フリーランスとしての活動です。

「エリート」なんて言葉は流動的でなんの意味もないのですが、少なくともきみが「才能」や「エリート」なんてものを正直意識してしまうのなら(あたしみたいに!)、自分だけの働き方を追求するべきだと思います。

たとえばこんな働き方↓

 

「やればできる」をやってもできないものはできない!

今の日本の高学歴エリートがよく言う言葉の中で、あたしにはどうしても好きになれないものがあります。それは、

誰だって、やればできる!

みたいなやつ。

たまたま現代の価値観に合わずに「生きる力が乏しかった」何割かの人に対して、自分の価値観を前提にした上で「とにかく頑張れ」「努力と継続が大事」みたい根性論ってどうなのかな……って思います。

たとえば、家から出られず引きこもってる人に向けて、「外に出よう!」って促してみるとかいうやつ。家から出るだけが「生きる力」を手に入れる手段ではないでしょ?

もちろん中には、こんなありがたーいお言葉のおかげで社会復帰できる人もいるとは思うけど、それと同じだけ、余計に悩んだり追い詰められたりする人だっている。

そもそも、今の世の中の仕組み自体が無理なんです……

とか、

これ以上私に頑張れと言うんですか……?

とか。

それなのにエリートの指揮のもとみんなで無理やり社会復帰を押し付け、大きな声で挨拶しておじぎは何度で……とか強制して、毎朝決まった時間にちゃんと起きてぎゅうぎゅう詰めの電車に乗ることを強制して、できない人を頭ごなしで否定して、少々の嫌なことは忍耐で乗り切らせようとする。

虐待です、こんなの。

 

完全な「エリート」も、はたまたあたしみたいな「エリートとまでは言わないけれども一応はそれなりに社会にうまく適合してこれた人」も、とにかくみんながしなくちゃいけないことは、「現代に適合できなかった人」に対して無理やり適合させようとするのではなく、その人がかろうじて適合できるような折衷案を見つけることなんじゃないかと思います。

そういう人が自らの才能に気づくまで、待つ。最低限は生きていけるような準備を整える(生活保護の見直しとかベーシックインカムとか)ことが必要なんじゃない?

 

もしもあたしが明治時代に産まれていて、「女性は繊維工場で低賃金で働くことが絶対条件!」ってされるような環境のもとに身をおいていたとしたら、どれほどアメやらムチやらフル稼働して働くように矯正されたとしても、きっとこう思うばかりだと思います。

無理だから……お願いだからあたしのことは諦めて!!

 

多様性を認めるとかが社会全体の潮流なのだとしたら、「そもそもが無理」みたいな考え方も受け入れられるような社会になってほしいなと思います。

そしてそういう「無理」な人たちにとってできることが、世界をますます変革させるキッカケになったりもするわけです。

エリートや才能がある人は、ない人に対して、
「『変える』ではなく『受け入れる』」姿勢で臨む

みんな誰しもエリートで、みんな誰しも才能持を持つ人で、そういう人たちが「今は自分が受け入れる番か」みたいな感じで捉えながら交代交代で社会を作り上げていったほうが、世の中うまく回っていくと思います。



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