怒りの声 という表現について思うこと
「 怒りの声 」という表現を、ニュースでよく見かけます。
前回のオウンドベースで取り扱った内容は、「ニュースでよく見る表現」の解説でした。
確かに記事を読んでみると、使われている特有の「用語」を自分が日頃いかに流し見して深く考えていないかを実感します。
そんな一方、私が昔からニュースを見ていてどうしても気になる表現がありまして、それがこの「怒りの声」なんです。
たとえば最近のニュースですと、
など、ニュースの見出しだけでもたくさんの「怒りの声」が出てきました。
そしてこれらを並べて私は思うんです。
「怒りの声」って、内容によって区別できないものかな…?
って。
上に挙げたのはすべて世間からの「怒りの声」ではあるのですが、その内容は全然違います。
A:「東京医大の不正入試」や「西日本豪雨での被害」、「性的少数者差別」についての「怒りの声」
B:自分たちの好きな「セーラームーン」を軽んじられたことに対する「怒りの声」
C:人気タレントの不倫報道を糾弾する「怒りの声」
この3つを同じ「怒りの声」という言葉ひとつで言い表して良いものでしょうか?
タレントの不倫についてはモラル的な是非はあるものの、人命や尊厳がかかっている案件に対する「怒りの声」とは重みが全く違います。
好きなものを馬鹿にされて腹が立つのはすごくよくわかりますが、タレントさんのスキャンダルについては「好きだから」怒りの声をあげているわけではないと思います。
私は、ここに書かれている方たちが、なぜそこまで怒っているのかに疑問を持っているわけではありません。
むしろ逆です。
怒っているニュアンスを正確に伝えてほしいし、私自身もしっかり汲み取らせていただきたいから、「怒りの声」という言葉だけで簡単にまとめてほしくないのです。
そもそも「怒りの声」と聞くと、ネガティブなイメージを抱きませんか?
仮に自分が報道機関に意見を求められたとして、心から改善を願って苦言を呈した場合に
怒りの声も聞こえますねー
なんてあしらわれたら、まるで私が癇癪を起して発言したみたいじゃないですか…。
感情のおもむくままに怒号をぶつけ、叫び、軽くヒステリー状態になり、「とりあえずほっとけ」的な扱いを受ける。
私は正直、「怒りの声」という言葉からそんな扱われ方をしている印象を受けます。
冷静かつ論理的に主張しても、「怒りの声」。
苦々しげに愚痴をこぼしても、「怒りの声」。
青筋を立てて身体を震わせて言葉を搾り出しても、「怒りの声」。
確かにニュースや不祥事に関する世間の批判を取り上げるとき、その人は間違いなく怒っているのでしょうが、
もう少し、発言者のニュアンスに配慮してほしいな……
とニュースを見ていて思います。
ということで、今回私はこのブログを通して
「怒りの声」とはどんな声なのかを分析し、表現の代案を考えてみたいと思います。
以前に書いた、「感情を表す難しい言葉」の記事も合わせてご覧ください!
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なぜ私たちは「怒る」のか?
私たちの中に、まったく怒らない人なんていません。
「怒りにくい人」はいるかもしれませんが、それは程度の問題です。私自身も普段あまり怒らない方だと思いますが、それでもゼロではありません。
じゃあなぜ私たちは怒るのかというと、そこに伝えたい主張や感情があるからです。
怒ってるんだから、それは「怒り」の感情なのでは?
と思う人も多いでしょうが、実際はそんなに単純なものではないと思います。
○彼氏がかまってくれないから女性が怒る
→これだと寂しさや悲しさを伝えたいことになります。
○上司に注意されたことで部下が影で怒る
→ここには自分自身へのふがいなさも含まれているでしょう。
○電車の中でマナーの悪い人に怒る
→ここでの原動力は、正義感です。
○おもちゃを買ってくれない母親に子どもが怒る
→これは甘えからくる行動です。
このように、背景や理由にも目をやってみると、その内容には大きな差があることがわかります。気にかけてみると、場合によっては怒りのコントロールがしやすくなるかもしれません。
たとえば、今この記事を書きながら私が感じている怒りは、
自分の思いを正確に文字にできない己へのふがいなさ
です。「悔しさ」に近い感情ですね。
ですがもちろん、
好きな女性アナウンサーが番組を降板したことに対する「怒りの声」
を上げている人が、「彼女を番組に継続させられなかったことに責任を感じ、己へのふがいなさに苦しんでいる」かと言われたら、絶対にそうではないです。
それでは、すべての「怒り」に共通していることは何かと考えた時、私はひとつの感情にたどり着きました。
それは、「期待」です。
自分が予想していたことと反する事実が起こった時、私たちは怒ります。
それは、予想段階から自分の「期待通り」にことが進むと思っていたということでもあります。
「怒り」というよりは、裏切りや失望に近いのではないでしょうか。
「期待」というとわがままな感情に聞こえてしまうかもしれませんが、そういう独善的な感情は今は問いません。
「怒りの声」を上げる原因は、
・想定外の対応をされたから
・信頼を損なわれたから
こう言えば、今よりはあらゆる「怒りの声」にこめられた感情を包含できるのではないかと思います。
つまり、「怒りの声」というよりは、
失意の声/信頼を裏切られた声
と表現するべきではないでしょうか。
この言い回しは、意外とニュースではあまり見かけません。
やっぱり、「怒りの声」と表記した方がセンシティブだからでしょうか…?
怒りを10パターンに分類する「仏教世界」
さらに「怒りの声」に勝る表現はないかと探していたところ、仏教の教えの中で怒りが10パターンにカテゴライズされていることを知りました。
本来のこの分類の意図としては、
怒りを正確に意識することで、怒りをなくす
ことにあるようなのですが、「怒りの声」への代案へと応用できないかと思い、以下に紹介します。
①Dosa(基本的な怒り)
仏教でこの「ドーサ」を基本的な怒りとし、派生形としてさらに9つを加えた計10種類に分類しているそうです。
「なんだか楽しくない」「つまらない」「退屈だ」「嫌だ」
など、暗い気分のことを指すそうです。
②Vera(憎悪)
上記の「ドーサ」が強まったものがこの「ヴェーラ」です。
怒鳴る/わなわなと震える/歯ぎしりする
などといった、外見に現れるほど怒りが高まった状態を指します。
③Upanaha(恨み)
「ドーサ」が芽ばえた後で増殖してしまった怒りを「ウパナーハ」と呼ぶそうです。
過去の嫌な出来事を繰り返し思い出す/すぐに嫌な気持ちに戻る
などが特徴です。
④Makkha(軽視)
「マッカ」は、人の長所を軽んじる感情です。
相手の欠点を探し、自分より優れているところを見つけて不快になる
場合に、この強い怒り「マッカ」が生まれるそうです。
⑤Palasa(張り合い)
「パラーサ」は、戦い続けること、相手をつぶそうとし続けることです。
最初は単なる「勝ちたい」という感情なのですが、やがて度を越え、
一言だけでは気が済まず、ずっと嫌がらせを続ける
ようになるのが特徴です。
⑥Issa(嫉妬)
「イッサー」は、先ほどの「マッカ」同様相手の長所が見えてしまうと生じるものです。
怒りの矛先が相手に向かう「マッカ」とは違い、
なぜ私にあんな長所がないのだろう
というように、自分に向かうと「イッサー」になります。
⑦Macchariya(物惜しみ)
「マチャリヤ」は、自分がもっている幸せや楽しみを人に分けてあげたくないという感情のことです。
自分がとても苦労して準備したものを、他人が利用して楽しんでいるのを見て、気分が悪い
という、幸せを独占したいと感じる怒りです。
⑧Dubbaca(反抗心)
「ドゥッバチャ」は、人の忠告や教えに対して反発をもつ感情です。
他人がとやかく自分に指図することに腹が立つ
といった風に、他人や世間とのコミュニケーションを拒絶している状態を言います。
⑨Kukkucca(後悔)
「クックッチャ」とは、自分に向けての後悔の念です。
過去の失敗経験にこだわり続ける
などという風に、前に進みづらくなります。
⑩Byapada(激怒)
「ドーサ」が度を超えた状態です。
理由もないのに
大量かつ無差別に破壊したい
という気持ちが強く、自制が効かない感情です。
私の勉強不足で他にもあるかもしれませんが、調べた限りでは、仏教における「怒り」はこの10種類で、これらを無くすよう試みを促すのが仏教の教えのようです。
これらを見たうえで、冒頭で考えた3種類の「怒り」
A:「東京医大の不正入試」や「西日本豪雨での被害」、「性的少数者差別」についての「怒りの声」
B:自分たちの好きな「セーラームーン」を軽んじられたことに対する「怒りの声」
C:人気タレントの不倫報道を糾弾する「怒りの声」
を振り返ります。
Bの「軽んじられた怒り」というのは、「⑦物惜しみ」と「⑧反抗心」に近いのかもしれません。
・自分たちが好きな領域を、ぽっと出のよくわからない人たちに汚されたくない
・「オススメの楽しみ方」をアドバイスしてくるなんて、腹が立つ
こういう感情が渦巻いた結果の「怒り」だと言えなくもないです。
また、Cのような「タレントへの怒り」については「⑤張り合い」が該当するように思えます。
本来タレントさんとは一切接点がないはずなのですが、自分が存在を知っているかつ華やかな世界に見えるということで、
・自分の方が「タレント」よりも幸せでありたい
という感情が原動力になっているのかもしれません。
ですが、Aのような「怒り」に該当するものは……10種類の中に入っていないように思うのです。
BCとAが大きく異なっている点としては、
当事者が実害を被っている
ところにあります。
個人の尊厳が軽んじられ、自らの生活環境が脅かされたうえでの反論なのですから、これを「怒り」と定義した上で
怒るのはやめよう
という結論に持っていくのは、乱暴すぎる気がします。
「怒りの声」という言い回しを彼らに対して使い続けるのであれば、
怒るのは当然だし、これからも怒り続けるべきだ
と主張せざるを得ません。
だからこそ私は、現状に対する問題提起やこれからの未来に向けての改善要求を訴える人々の発言を指して「怒りの声」と安易に表記するのをやめるべきだと思うのです。
まとめ:「 怒りの声 」をあらわす最適な表現は?
ここまで書きました通り、ニュースでよく見かける「怒り」に込められた感情の意味は、一概には表せないです。
芸能ゴシップに対する
羨ましい! けしからん!
みたいな嫉妬やあこがれが混じった声はこれまで通り「怒りの声」で良いと思うのですが、問題は
待遇の改善を!/損害の原因に関する明確な説明を!
のような、社会に対する問題提起にまつわる「世間の声」をどう表記するかです。
まず考えられるのは、
「憤りの声」
という言い回しです。
「怒り」が単に立腹している状態を指すのに対して、「憤り」は「不満を抱く」という当事者の内心も含めた表現です。
怒り…見た目
憤り…内に秘めた感情
と違いを書くとわかりやすくなりますでしょうか?
事実、「憤りの声」という表記を使ったニュース記事もありました。
素晴らしいと思います。先ほど一緒くたに「メディアは『怒りの声』しか使わない」と仮説を立ててしまい、申し訳ない気持ちになりました。
ですが、これでもまだすべてを補い切れていない気がします。
一般的にイメージされる「怒りの声」は、
叫ぶ/怒鳴る/まくしたてる
などといった「動」の印象が強いように感じます。
これは、「憤りの声」としても同じでしょう。
ですが、訴えかける人の中には、
感情がこみ上げて言葉にならない/胸が詰まる
などといった「静」の印象を抱かせる人もいるはずだからです。
そしてこういう人たちの声もまた、最も多用される「怒りの声」の中に混じっているはずです。
なので、どうすればよいか?
嘆き・悲しみのニュアンスも含めるべきだと私は思います。
これらから考えると、最適な表現は、
✕「 怒りの声 」 ○「悲憤の声」
かと思います。
以前のブログの中で、「悲憤慷慨」という表現を取り扱いましたが、その関連でも推薦します。
また、「悲憤」という単語そのものの意味の中に、
(社会の不正や乱れなどを)悲しみ憤ること。
といったニュアンスが含まれているのもポイントです。
そしてこの言い回しは、残念ながらニュースにはほとんど出てきませんでした…。
思うに、メディアがこの表現を使わないのは、
「悲憤」が難しい言葉という印象を与えるから
ではないでしょうか。
読み原稿として「は行が連続するから言いづらい」という理由で避けられているのならまだわかるのですが、活字が主なニュース記事などでもほとんど出てこないのは、やはり「字面としての印象」によるものだと予測できます。
今の私たちの環境の中では、言葉がどんどん簡単になっています。新しく生まれた言葉もある一方、廃れゆく言葉もそれ以上に存在することでしょう。
かく言う私自身、ここまでお読みいただければわかる通り、語彙力の乏しさは否めません…。
言葉が簡単になればなるほど、その裏に込められた気持ちはどんどんなくなってしまう
そのことはみなさんにも忘れていただきたくないですし、私自身も肝に銘じてさらなる知識を身に付けていきたいと思います。
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